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2018.04.23

東京オリンピックへの光景 第四回 炎の料理人

  • Category CULTURE

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東京オリンピックへの光景 第四回 炎の料理人

  

帝国ホテル総料理長であった村上信夫さんをご存じだろうか。

半世紀以上にわたって厨房に君臨し、帝国ホテルのみならず、和食の職人たちからも尊敬を受けた不世出の料理人と言っていい存在である。

村上信夫は43歳の時、日本の料理界の命運を担う戦いに挑んだ。

昭和39年 (1964) 年に開催された東京オリンピックの料理長に任命されたのだ。

選手、役員、報道陣など94か国から一万人が集う世紀の大舞台である。

求められる各国の料理の種類は二千を超すといわれた。開催国の料理人がすべてをまかなうのが慣例だったが、アジアで初めてのオリンピックに各国から不安の声が上がった。

「極東の国日本では西洋料理の対応は出来ないのではないか」

フランスやイタリアは自国の料理人を送り込む構えをしめした。

村上の双肩に日本の料理界の威信がかかったのである。村上の元には全国から選抜された三百人の料理人が結集した。

 

村上信夫は、凄まじい経歴を持っていた。大正10年、東京神田の食堂の息子として生まれたが、10歳の時に父と母を結核によって失い、小学校六年生で浅草の軽食堂「ブラジルコーヒー」の住み込みとなる。フランス料理に憧れ、帝国ホテルの厨房に入るが、

招集され、朝鮮半島で終戦を迎え、シベリア送りとなる。強制労働に耐え抜き、帝国ホテルの戻り、パリへ料理留学。ホテル・リッツで世界的なシェフ、アンリ・ルジュールに才能を見出された。

村上には信念の言葉があった。「料理は今が一番大事だ」

 

昭和39年8月選手村に四つの食堂が完成した。富士食堂、桜食堂、女子食堂、サプライセンターである。


オリンピックが開かれて間もなく、食が進まないと選手たちから声が上がった。

村上はその理由が分かった。選手たちは激しい運動で、汗とともに大量の塩分を失っていたのだ。しかし、強い塩加減にすれば、料理はまずくなる。料理長の村上は、料理人たちを前に、自ら鍋に向かい、レシピよりもわずかに多くの塩をつかみ、三本の指で、雪が舞うように振って見せたのである。それはまさに「今」であった。

オリンピック村に集まった世界の人々は、日本の西洋料理に感動し、ムッシュ村上と敬意をこめて呼んだのである。

 

選手にとって大会の中の唯一の楽しみと体調管理は食事にあることはいつの時代も同じである。2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは合計で1500万食が必要だと試算されている。日本の料理は多彩に進化してきた。フレンチも中華も世界標準である。村上信夫さんが率いた料理団をしのぐ感動を世界に与えてくれると密かに期待している。

 

 

写真参照:JAPAN SPORT COUNCIL, Instagram

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