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2019.01.15

東京オリンピックへの光景 第八回 翼よよみがえれ、YS‐11

  • Category CULTURE

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photo by @yamaotoko42195

 

東京オリンピックへの光景 第八回 翼よよみがえれ、YS‐11

 

 

オリンピックは、世界のスポーツの祭典であるが、そこにとどまらない様々なインフラ、文化を生み出すことを今まで伝えてきた。今回紹介したいのが、国産初の旅客機の物語だ。

 

昭和39年(1964年) 8月23日にアテネを出発したオリンピック聖火は、イスタンブール→ベイルート→テヘラン→ラホール→ニューデリー→ラングーン→バンコク→クアラルンプール→マニラ→香港→台北を経て9月7日に那覇空港に到着した。2日間の島内リレーののち、3つの安全灯に分けられた聖火を待っていたのは、日本の悲願であった国産旅客機YS-11であった。東京五輪の聖火リレーは沖縄→鹿児島→宮崎→千歳で実現した。

 

国産旅客機YS-11が誕生するまでの道は、苦難の連続であった。昭和20年、日本は連合軍に無条件降伏し、敗北した。占領軍が発表した「降伏後の日本に関する米軍の最初の政策」とは、まず日本の「武装解除並びに軍国主義の抹殺」にあった。大戦時、連合国軍を苦しめ名機の誉れ高かった「零戦」「隼」「紫電改」などを生み出した日本の航空技術は、アメリカ、イギリス、ドイツなどの航空先進国と肩を並べるものと言われた。ダグラス・マッカーサー総司令官率いるGHQは日本の才能豊かな航空技術を一気に解体しようとした。航空禁止である。

航空機の生産は無論、研究、実験、教育、ありとあらゆる航空に関する活動は禁止されたのである。ここで驚くのは、航空技術者は大学の教壇に立つことすら許されず、追放されたことだ。金属などの素材研究も飛行機につながる可能性があれば中止させられた。徹底した航空活動の禁止は7年に及んだ。科学技術の中で最も高度な研究と知識の蓄積が必要な航空分野において、この7年のブランクはあまりに大きい。

 

航空日本の夢を見て、財団法人輸送機設計研究協会が設立されたのは1957年である。集まったメンバーがすごかった。零戦の設計者、堀越二郎、隼の太田稔、紫電改の菊原静雄、飛燕の土井武夫らであった。伝説の航空機設計者が若者たちに飛行機設計を白紙から教えるというプロジェクトであった。

そして実作段階で、プロジェクトを率いたのは東條輝雄であった。父親は東條英機であったが、息子輝雄はけた外れに優秀な設計者として知られていた。

 

YS‐11の詳細設計において、大きな課題となったのは疲労強度、耐久性であった。戦闘機の平均稼働時間は平均で100時間足らず、疲労によって亀裂などはいれば大爆発してしまう。YS‐11の設計に関しては、年間に3000時間、10年間で3万時間、世界一安全な飛行機を作ろうと意気込んだのだ。

日本の翼、YS-11は東京オリンピックの夢を運んでくれた。だが、その後に本格的な航空機は生産されていない。やはり、航空禁止の7年間は大きかった、世界に立ち遅れ、市場がなくなっていたのだ。はなはだ残念なのだが、先進国の中で、自前で飛行機を作れないのは日本ぐらいだろう。今回の東京オリンピックを契機に、日本の翼を取り戻そうという機運が高まってくれないだろうか。

 

 

写真参照:Wikipedia, Instagram 
写真提供協力:@yamaotoko42195 (Instagaram)

 

 

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