风格竞技场一般日本时装协会工作。

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2018.09.13

到东京奥运的壮观场面 第七届 " 富士山天气雷达 "

  • Category culture

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東京オリンピックへの光景 第七回 富士山レーダー

 

今年の日本は異常気象に襲われている。中国地方は水害によって痛ましい傷を受けた。

台風は不思議な進路で各地を翻弄している。史上最高の猛暑日を連日記録し、2020年のオリンピックマラソンのスタートは午前7時に設定されることになった。日本は四季折々豊かな自然を持つ国であるが、同時に極めて厳しい自然環境にあることを思い知らされる。

昭和39年の東京オリンピックの開幕が迫る同じ頃、日本の象徴富士山の山頂で気象レーダーの建設が進んでいたことはあまり知られていない。

 

昭和30年代、気象庁は繰り返し襲来する巨大台風の脅威に苦悩していた。昭和34年の伊勢湾台風は死者行方不明者5041名という未曽有の災害となった。インフラをズタズタにし、多くの人命を奪う台風は日本の成長を阻む悪しき敵であった。なぜ、大きな被害が出るか、それは当時のレーダーでは3時間前しか台風の位置を正確に知ることができなかったのだ。わずか3時間前では、十分な備えも避難もできなかったのだ。人々を守るには24時間前に南海上からやってくる台風の位置を補足できる場所にレーダーを建設するしかなかった。それは4000メートル級の高さがある富士山頂しかなかったのである。

 

レーダーの設計を担ったのは三菱電機伊丹製作所である。最大探知距離800㎞(従来の三倍)出力1500kw(従来の5倍)と空前の能力を持つレーダーを作り、富士山測候所のスコープの映像をマイクロ波に乗せて、電送し、東京の気象庁で見れるようにしようという前代未聞のプロジェクトであった。

東京オリンピックの成功のためにも、富士山レーダー建設は極めて重要なプロジェクトであったのだが、皮肉なことに東京オリンピックの建設ラッシュが始まり、作業員は引く手あまたであった。作業環境の最悪な富士山頂での作業員を確保するのに困難をきたした。一番の問題は高山病であった。山頂の平均気圧は638ヘクトパスカル、平地の3分の2程度しかない。酸素不足が原因で、頭痛、息切れ、吐き気に襲われる厄介な現場であったのだ。

 

建設の現場リーダであった伊藤庄助は逃げようとする作業員たちに次の言葉をかけた。

「男は一生に一度でいいから、子孫に自慢できるような仕事をするべきである。富士山こそその仕事だ。富士山に気象レーダーの塔ができれば、東海道沿線からでもその姿が見える。それを見るたびに子や孫に、おいあれは俺が作ったのだといえる」

 

富士山レーダーが東京オリンピックの下支えをどのようにしたのか、記録は残されていない。だが、外国からの多くの人々を迎える中で、安心の材料となったことは間違いないだろう。

2年後に迫った東京オリンピック、様々な気象状況を克服し、無事に進んでほしいと心より祈っている。

 

 

写真参照:Wikipedia, 災害情報アーカイブ

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